イタリア・ファシスト党を組織し、第二次大戦ではドイツ、日本とともに枢軸国として戦い、敗戦。'45年4月、連合国軍から逃れて中立国のスイスへ逃亡途中、パルチザンに見つかり、愛人のクラレッタ(クララ)・ペタッチとともに銃殺刑に処され、ミラノのロレート広場に晒された。
早くから社会主義思想に目覚め、イタリア社会党に参加、めきめきと頭角を現す。イタリア・トルコ戦争に際して反政府運動を強め、半年間にわたって獄に下る。出獄後、党の機関誌「アヴァンティ!(Avanti!)」の編集長となって部数躍進に尽力。イーダと出逢ったのはこの頃と推測される。
第一次大戦に際して好戦的傾向を強め、中立路線を取る社会党から除名されたのを機に、独自の道を模索。'19年にミラノで〈戦闘者ファッシ〉を組織し、これを母体に'21年、ファシスト党を設立。そして'22年、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世から組閣を命ぜられ首相となる。さらに'25年にはその権限を強化した統帥(ドゥーチェ)となって事実上の独裁体制を築き上げる。またその一方、ローマ教皇庁との関係改善(あるいは懐柔)を摸索し、'29年にヴァチカン市国を認めるラテラノ条約を調印。
人種政策などにおいて、ヒトラーのナチス・ドイツとは距離をおくが、ドイツ観念論やマルクス思想に傾倒していた時期もあり、ドイツ語に堪能であったほか、英語、フランス語も操り、哲学から芸術にまで通じた教養人であったとも言われている。
その女性関係は華やかだったことが知られており、ともに処刑されたクラレッタ・ペタッチをはじめとして関係をもった女性は数百人を下らないとの説もある。イーダ・ダルセルもそのなかのひとりだが、その存在については、近年まで知られていなかった。文字どおりムッソリーニにその痕跡を抹殺されてしまったためだが、'05年にマルコ・ゼーニによる書物『La moglie di Mussolini』(Effe e Erre刊)によってその存在が明らかにされ、'06年にアルフレード・ピエローニがまとめた『Il figlio segreto del Duce』(Garzanti刊)には、イーダが書いた手紙などが収められ、彼女の記憶を現代によみがえらせた。
ベニート・ムッソリーニ Benito Mussolini
未来派 futurismo
1909年、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティによって起草された「未来派主義創立宣言」を発端として始まった、20世紀最初の芸術運動。表現主義から影響を受けつつも、機械をはじめとする近代文明を讃美し、速度と運動そのものの美を追い求め、ノイズの美を謳い、19世紀的世界観からの隔絶を明らかにした。また、'20年代にはイタリア・ファシスト党からも受け入れられ(中心人物のマリネッティは、ムッソリーニの戦闘者ファッシの一員であった)、政治運動とも共闘して発展してゆくこととなる。
主な人物は、マリネッティのほか、ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニ、カルロ・カッラ、ルイージ・ルッソロ、ジーノ・セヴェリーニら。
監督が語る『愛の勝利を』
「私がイーダ・ダルセルという女性を映画で描きたかった理由はごくシンプルだ。彼女はヒーローだからだ。何年もの間、彼女は完全にひとりぼっちだった。彼女はひとりで戦った。ドゥーチェに対してだけでなく、おそらく自分では気づかないで、不本意ながらも、イタリア国民のほとんど全員を敵にまわして闘ったのだ。
イーダと出会ったころのムッソリーニはまだ社会主義者で革命家だったが、ふたりが再会し、恋人となったときには、第一次世界大戦勃発という時勢における参戦論者たちに賛同してそれまでの理念を捨てていた。エネルギッシュでカリスマ性にあふれていたが、それと同時に冷酷で打算的な男でもあったムッソリーニは、自分は人の上に立つべき運命にあるとすでに確信していた。
ムッソリーニが栄光の道を進むにつれ、イーダの孤独は恐ろしいほど深まっていった。精神病院のもっとも過酷な病棟に閉じ込められたときでさえ、彼女は妥協することを拒み、抵抗を続けた。イーダは正気を保ち、狂気に染まらないようにした。想像を絶する努力で、彼女は絶望の淵に落ちていくことを避けたのだ。それを支えたのは、彼女自身の思い出と、取り戻さなければならない息子への愛情だった。
あらゆる危険に直面しながらも、自分に起こったことを訴え、権力に屈しなかったことで被った悲劇を世界に知らしめたいというイーダの願いは、手紙を書くことによって続けられた。それら彼女の手紙は、当時のイタリア人のほとんどが失っていた心の清明さの証とも言える直感力と洞察力にあふれている。
私たちは、抵抗をし続け、そして、自分より果てしなく強い敵に向かっていくことを恐れなかったイーダ・ダルセルを忘れない。その意味で、彼女は戦いに勝ったのだ。ムッソリーニにはほかにも反抗的な愛人はいただろうが、いま、世に知られているのはイーダだけだ。彼女には、世間に向かって訴えるだけの強さと勇気と、ある意味の愚かさがあったからだ。それゆえ、私にとって彼女のストーリーには歴史的な価値がある。彼女の人生を知ることにより、ファシズムは笑い話ではなく、残酷な独裁政治体制だということを思い出さざるをえない。その狂気の策略を実行するためなら、邪魔になる者は誰あろうと踏みつぶし、無数の罪なき人々の命を犠牲にした体制なのだということを」
──構成について「言うまでもなく、ロケーションは特に室内(ソプラモンテの家、精神病院の内部、映画館)に合わせて探した。劇中に登場する映画館もこの映画の重要なテーマだった。脚本では4カ所登場する。それらは、ミラノのリバティ・シネマ、トレントの映画館、映写室に変身した軍病院内のある場所、そして、ペルジーネにある精神病院の庭に建てられた仮の映画館だ。映画館にこだわった理由は、当時の映画が単純な定義として、芸術のひとつの形態であり、純粋な大衆娯楽だったという事実による。
また当時のニュース映画はプロパガンダ的なものだったとはいえ、歴史を記録したものであり、イーダ・ダルセルはそのおかげで彼女にとっての“運命の男”を動く姿として再び見ることができた。映画がなければ、彼女は二度とムッソリーニをその目で見ることはできなかっただろう。さらに、この映画で重要となってくるのは、未来派の採り入れ方だ。画像、絵画、建築、彫刻、音楽、写真、映画、詩など、さまざまな分野にまたがる未来派の運動をひとつの基準値としてとらえる必要があった。未来派と干渉主義、ナショナリズムとファシズムの間にはそれぞれ密接な結びつきがあり、ファシズムと未来派との近接性、さらにはファシズムのもともとのイメージが未来派にあったことを示唆するためでもあった」
「必然的に、光が照らし出すのはカメラがフレームにとらえたものすべてだ。光が選ぶことはできない。詩的な知性がなければ、醜いものと美しいもの、本物と偽物を同じショットのなかで選び、区別することはできないのだ。
撮影では、初期のカラー映画に典型的な色とコントラストを利用しているが、そこに退廃的な影響はない。光と影の明確なコントラストによって、現在のTVにありがちな照明の平坦さは消し得ているはずだ」
(オリジナル・プレスより再構成)